【書評】『Humankind 希望の歴史』ルトガー・ブレグマン

「人間なんてロクなもんじゃない」という人間観って、実は科学的な裏付けはない

『Humankind 希望の歴史』は、現代の人間の人間観の底流に流れる「人間はロクなものじゃない」「人間はおかれた状況によりどんな残忍なことでもしうる」という、人間の本性は悪である、という性悪説に真っ向から立ち向かう著作だ。

勝間和代さんのブログで絶賛されており「どんなもんよ」と思って読み始めたのだけれど、非常に面白かった!

いままで自分が信じていた「人間は状況によっては他人を見殺しにするし、他者に対して害悪を働くことを厭わない」という人間への絶望感が、さまざまな論証によりどんどん論破され、もしかしたら人間の本性は善なのかもしれないと思うに至った。 

 

Summary

現代の西洋文化に通底する「人間はロクなもんじゃない=人間の本質は悪だ」という思想がどこに端を発するのかを丁寧に読み解き、その思想がいかに恣意的に喧伝されたかを解説してゆく。

例えば…

  • 少年たちの残虐さと愚かさを描いた『蝿の王』。しかし、小説と似たような事故(少年たちだけが孤島に取り残される)が実際に発生した際に起こったのは殺し合いではなく助け合いだった。ちなみに、発見された際、少年たちはめっちゃ健康体だった。
  • 戦時中に銃を撃ったことがある戦士は実は15−25%しかおらず、自分が撃たれるリスクがある場においても、敵を殺そうとしなかった。人間は、人を殺すことに対して非常に大きな抵抗感がある。
  • キティの死で有名になった傍観者効果は、他者とのコミュニケーションが断絶された状況においては事実かもしれないが、①命の危険があることが明白であり②傍観者が互いに対話できる状況であれば、むしろ傍観者効果は逆に働く。そもそもキティの事件で喧伝されている「37人の傍観者」は、警察から事情聴取を受けた人数であり、寝ていて事件に気がつかなった人も含んでいる。キティは37人の傍観者に放置されながら一人で亡くなったわけではなく、事件に気づいて駆けつけた知り合いの腕の中で亡くなった。
  • 人間は立場を与えられるとどんな残忍なことも躊躇いなくする、看守は看守らしく振る舞い、囚人は囚人らしく振る舞うようになる、ということで有名な心理実験「スタンフォード監獄実験」。しかし、実際は実験を管理するフィリップ・ジンバルドと研究チームから看守らしく振る舞うことを強制されたことがさまざまな証拠で残っている。強制されることに嫌気がさして看守を下りた人もいるし、「出してくれ」と狂乱状態になったと言われている囚人役の生徒は、実験中に期末試験の勉強ができると思っていたのにできなかったため、わざとそのように振る舞ったとのちに証言している。さらに、後年BBCが同じ実験をしたところ、何も起きなかったどころか、看守と囚人が交流を始めコミュニティが生まれた。
  • 人は権威に指示されれば他者を殺すことも厭わない、ということを明らかにした「ミルグラムの電気ショック実験」。が、そもそもこの実験で自分が本当に電気ショックを与えていると思っている被験者は半数程度だった。さらに、被験者の大半は「自分の行動が科学に貢献している」と思い、実験者を信頼したので一定数の被験者は人を殺すレベルまで電気ショックを与える指示を出した。しかし、そのためには宥めたり脅したり命令したりという実験者の工数が非常にかかることがわかった。

つまり、私たちが「ああ、人間って本質的に悪なんだ」「だって人ってこんなに残酷になれるじゃないか」というときの根拠は、ある人間のエゴが肥大化して時流に乗って世界的に「ノセボ(プラセボの逆)効果」をもたらしているだけなんじゃない?ということを論じている。

ではなぜホロコーストの虐殺のようなことが起こってしまうのか?というなぜに対し「共感」をキーにしつつ解説する。(第10章 共感はいかにして人の目を塞ぐか)

実験によると、幼児に親切な人形と悪い人形がでてくる人形劇を見せると、親切な人形に手を伸ばす。つまり、幼くても道徳心があることを証明している。しかし、はじめに「Aが好き」「Bが好き」を選ばせた後に「Aが好きな親切な人形」「Bが好きな悪い人形」の人形劇を見せると、親切であることよりも自分と好みが似ていることの方が優先される。つまり、自分が共感できる存在が悪であったとしても、そちらにつくのである。ある存在に共感すると、その存在にスポットライトが当たった状態になり、その他大勢が視野に入らなくなる。

このように人間は「共感」した相手に対しては、仲間だという意識を持ち、協力し合おうとする。しかし同時に、「共感」ができる相手の人数は限られており、「共感」できない仲間以外に対しては寛大でなくなることができる。ヒトラーや現代の戦争を指揮する、兵士が敵の兵士に対して仲間意識を持たないよう、遠隔操作(地雷、手榴弾、空爆、砲弾)で敵を殺すように訓練し、人間生来の暴力を忌避する能力をなるべく無効化しようとする。隣にいる共感できる仲間のため、という強調をすることで、遠く共感できない敵を殺すよう指示を行う。著者によると、このような指導者・権力者には特徴があり、エゴイストで利己主義者、偏執的なナルシストであるという。それゆえに、大多数は善良であったとしても、戦争は無くならない。

ヒトラーやIS指導者ほど変質的なナルシストでなくても、権力を持った一般の人も「荒天的社会病質者」、つまり脳を損傷したように衝動的、自己中心的で、横柄で無礼、他者の気持ちを慮らなくなるという。つまり、権力はそれを持った瞬間から腐敗が始まるのだ。(第11章 権力はいかにして腐敗するか)

私たち人間は、移動を基本とする狩猟社会から定住を基本とする農耕社会へと発展したとされている。濃厚社会が発展して文明が生まれ、「これは私のもの」「この土地はおれのもの」という概念がうまれた時から、自らの所属集団への帰属意識が優先され、アウトサイダーが排斥され、争いが生まれたと著者は説く。しかしこの文明化の呪いを説くため、人間は自らの人間観/-ismを思想し続け、17世紀に啓蒙主義が生まれた。つまり、「人間の本性は堕落しているが、利己主義を突き詰め、合理的な思考を行うことで、自らの生来の利己性を考慮に入れた知的な制度を設計できる。人間は、自らの悪い性質を利用することで交易の奉仕することができる。」という思想である。(乱暴に言い換えると、「みんな利己的で自分のことしか考えてないんだけど、自分も自分以外も利己的ってことは、その自己中さをみんなが納得できる範囲で押さえ込む仕組みを作って守ろうぜ、その方が結局自分の利益になるから!」という考え方のこと。)

そうして、民主主義や資本主義、法の支配が世界中に広がった。そう、これらの主義の根本には「人間は利己的なものである」という前提があるが故に、啓蒙主義者たちは「人間の本性には他人の幸福を求める原則が見られる」と認めていても、私たちは利他的な自分をすっ飛ばして、利己的であり、シニカルな人間観を持ち続けてしまうのだ、と著者は説く。

言い換えれば、人間の本性は利己的で「あるかのように」、わたしたちは行動すべきだとヒュームは考えていたのだ。そうではないと知っていても。これに気づいた時、一つの言葉が私の頭に浮かんだ。「ノセボ」だ。啓蒙主義、ひいては現代社会は、間違っていたのだろうか。私たちは、人間の本性についての間違ったモデルに基づいて活動しているのだろうか。(第12章 啓蒙主義が取り違えたもの)

では、人間は利他的である=本性は善だということを前提にした場合、何が起きるのか?が後半ではさまざまな事例で紹介されている。

例えば…

  • リーダーもマネージャーもいないにも関わらず、満足度は高く、コストは圧倒的に低い在宅ケア組織ビュートゾルフの成功 The Buurtzorg Model - Buurtzorg International

    medium.com

  • クラスはない、時間割はない、教室もない。先生の代わりにコーチがいて、生徒が自律的に学習を進めるサポートをするオランダの学校、アゴラ。

    medium.com

さらに、受刑者と看守がともに日光浴をして同じテーブルで食事を取るノルウェーの刑務所。このような刑務所から出所した受刑者の再犯率は、地域社会への奉仕や罰金を言い渡された犯罪者より50%も低いという。

エピローグで著者は、この本を書いたことで人生が変わり、この著作を書いた経験から生まれた10の指針を紹介して締め括られる。

  1. 疑いを抱いたときには、最善を想定しよう(ほとんどの人が善意で動いている寛容な人だ)
  2. win-winのシナリオで考えよう(いいことをすればいい気分になる、他者を許せば怒りから解放されず苦しんでいる自分を開放できる)
  3. もっとたくさん質問しよう(他者が何を望んでいるのかはわからない、なら聞こう、議論しよう)
  4. 共感を抑え、思いやりの心を育てよう(感情移入して共に苦しむことをやめ、その人のためを思おう)
  5. 他人を理解するよう努めよう、たとえその人に同意できなくても(理性を働かせて、感情で判断するのを止めよう)
  6. 他の人々が自らを愛するように、あなたも自らを愛そう
  7. ニュースを避けよう(ネガティビティ・バイアスに支配されない)
  8. ナチスを叩かない(他者を攻撃するのではなく、手を差し伸べる)
  9. クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない(善行をしたのに自分の行動を遠慮し、恥じると、ノセボのようにシニカルな見方を身につけてしまう)
  10. 現実主義になろう

この最後の10個目が著者が最も主張したかったことだ。

本書の目的の一つは、現実主義(リアリズム)という言葉の意味を変えることだった。現在、現実主義者(リアリスト)という言葉は、冷笑的(シニカル)の同義語になっているようだーとりわけ、悲劇的なものの見方をする人にとっては。

しかし、実のところ、冷笑的な人は現実を見誤っている。わたしたちは、本当は惑星Aに住んでいて、そこにいる人々は、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ。

だから、現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日のもとで良いことをし、 自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、騙されやすい非常識な人、とみなされるかもしれない。だが。覚えておこう。今日の非常識は、明日の常識になり得るのだ。

さあ、新しい現実主義を始めよう。今こそ、人間について新しい見方をする時だ。