【書評】『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 マイケル・サンデル

私が大学に行けたのは努力のおかげ?それとも家にお金があったから?

正直自分はまあまあいい大学をでて、まあまあいい職場にめぐまれて、まあまあ社会的にも認められており、高校・大学でも同窓会に行けば「すごいねー、頑張ってるねー」と言われる。アンケートなどで聞かれた時に自分の年収や職業、大学の経歴で恥じるところは全くない。「みなさんに支えられてここにいるので、本当に感謝しています」といいつつ、ここまでこれるだけの努力をしっかりやってきた自分を誇りに思っており、その自尊心が仕事にもプラスの影響を与えており、ポジティブサイクルに入っていることを実感している。

努力する⇨認められる⇨努力する⇨認められて昇格する⇨努力する⇨認められて昇給する

でも、そのサイクルは本当に、私が「努力する」だけがサイクルの原動力になっているの?そこに外部からのインパクトってないの?つまり…

努力が認められる環境にいるから⇨努力できる⇨努力を認められるからよりがんばれて⇨もっと努力する

外部インパクトを考えずに自分の「努力」だけに帰す考え方は、エリートのおこがましい考え方なのでは?という疑問を呈する、耳の痛い著作が、マイケル・サンデル教授の最新刊。

 

 

実力も運のうち 能力主義は正義か?

実力も運のうち 能力主義は正義か?

 

 

 

 

”努力したことは否定しないが、同時に幸運だったんだ。自惚れるな”(サマリ)


現代社会では、難関大学への入学をはじめとする”自分の実力”で勝ち取った功績は、本人の努力によるものであり、その経済的・社会的な成功は本人の美徳と結びついていると広く信じられている。
その結果、社会的に高い立場にあるものは「自分はここまで自分の実力での仕上がってきた。低所得な人は自分よりも努力をしなかった怠け者である。つまり、彼らは見下すに値する。」と信じており、オバマ大統領をはじめとする民主党・イギリスの労働党のリベラルな人々もその説を補強する。
逆にいうと、低所得・低い社会的な地位に甘んじている層は、「自分は機会の平等は与えられていたのに、活かすことができなかった。自分が苦しんでいるのは自分のせいである」と信じており、自らを誇りに思うことが困難である。
しかし、難関大学の合格者の親の収入を見てみると、上位1%の生徒の方が、下位20%の生徒よりも多い。言い換えると、難関大学に入学するためには、「本人の能力」よりも「親の経済力(裕福な経済力に支えられた豊かな学習環境)」の方が重要なのだ。
つまり、今の社会で前提となっている「自分が経済的に豊かで社会的に認められているのは、自分が”自分の実力”で勝ち取ったものだから、それ以外の人を差別してもいいのだ」というエリートの奢りを否定し、我々の社会が共通善を目指すためにはどうすればいいのか?ということを圧倒的な筆力で語っている。
『われわれがどれほど頑張ったにしても、自分の力だけで身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。』

 

率直な感想。

相変わらず難しかったけれど、面白かった!筆力が圧倒的すぎて読みながら倒れそうになったけど、言いたいことのエッセンスはわかった気がします、サンデル先生!
比較的エリートに分類されるであろう自分は、差別をしている気はなくても、「でも、高校時代に努力してなかったから大学いいところ行けなかったんでしょ?」「ショップ店員になるって、自分で決めたんでしょ?大学入学じゃなくて」「私が勉強していたあの時、あなたは彼氏とぱやぱやしてたじゃない」と思っている節は否定できない。つーかめっちゃ思ってます。

結局、私たちが目指すべき社会ってどんな感じ?

サンデル教授の言う「共通善=common well」ってものがなんなのかが正直つかみかねているところがあるものの、最終章で語っている『出世できない人もしかるべき場所で活躍し、自らを共同事業の参加者とみなせる』ようにする必要がある、という論から推測すると、この社会に生きる人全てが「自分は生きている価値があり、自分らしい貢献をすることで、共同体に尽くし、対価を得ることができる。自分の能力は隣の人とは異なるものであるけれど、どちらも等しく重要であり、尊重されるべきだ」と相互に考えられる社会だと思う。
そんな社会、いいなあ。

参考資料

www.youtube.com

 

日本から捨てられた土地で生まれて