【書評】『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』東畑開人著

2年前に『居るのはつらいよ』をよんでからファンになった東畑さんの最新の書き下ろし『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』を読みおわった。

紀伊國屋じんぶん大賞受賞の臨床心理士・東畑開人氏が贈る新感覚の“読むセラピー”
家族、キャリア、自尊心、パートナー、幸福……。
心理士として15年、現代人の心の問題に向き合ってきた著者には、強く感じることがあります。
それは、投げかけられる悩みは多様だけれど、その根っこに「わたしはひとり」という感覚があること――。
夜の海をたよりない小舟で航海する。そんな人生の旅路をいくために、あなたの複雑な人生をスッパーンと分割し、見事に整理する「こころの補助線」を著者は差し出します。
さあ、自分を理解し、他者とつながるために、誰も知らないカウンセリングジャーニーへ、ようこそ。

【目次】
まえがき 小舟と海鳴り
1章 生き方は複数である 処方箋と補助線
2章 心は複数である 馬とジョッキー
3章 人生は複数である 働くことと愛すること
焚火を囲んで、なかがきを―なぜ心理士になったのか-
4章 つながりは複数である シェアとナイショ
5章 つながりは物語になる シェアとナイショII
6章 心の守り方は複数である スッキリとモヤモヤ
7章 幸福は複数である ポジティブとネガティブ、そして純粋と不純
あとがき 時間をかける

発売は2022年4月で発売当初から「あ、新しい著作でたな」と思っていたものの、なんだか食指が動かずに5月後半に購入、6月の34歳になった記念に湯河原の温泉旅館でゆっくりと読んだ。

いやー、この人の著作、なかでも特に書き下ろしは、本当にきちんと丁寧に納得がいくまで練りに練って練って書き上げた感じがする。今回も非常に読み応えがあり、メルカリで売らずに本棚に収まって、たまにパラパラめくる本なりそうな予感がする。

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今回の東畑さんの著作は、東畑さんがカウンセラー、読者がカウンセリングを受けるように、読んでいくうちに患者(自分)が、自分の心と対話しながら一歩一歩歩んでいけるようになっている。

いや、歩んでいくための船の航路図を示している、というべきかな。なぜなら、生身のカウンセリングと違い、さらっと内容だけ読むだけでは、自分が何を考えているのかについて深く自分の心を覗き込むことができない。(やっぱりカウンセリングという生身の心がぶつかり合う場の力は大きい。)

なので、私として4月5月に読む気が起きなかったのは、いろいろ忙しく自分の心を見つめ直す時間がないことを無意識に感じていたからかも、と感じた。仕事のことを忘れて、この本的に言うと、自分の行動をマネジメントしようとするこころの中にいる「ジョッキー」が少し手綱を緩め、思うがままに進む「馬」が動き出せる遊びがないと、この本は読んだところで“なんだかよくわからない話だなあ”となってしまっていた気がする。

必要な時に必要なものが手に入るようになっているんだなあ(みつを)

この本の中で東畑さんは、現代社会は「わたしはひとり」という孤独感を感じやすい社会構造になっており(個人の小舟化)、それがさまざまな悩みの源になっている。その悩みの源がひょこっと顔を出して、苦しい状態になってしまった時に、どのように悩みをとらえてアプローチすれば良いか。その苦しい状態になっている背景には何があるのか?を自分で考えるためのヒントが散りばめられている。
個人的には、第3章の「働くことと愛すること」は、CTIで学んだコーチングの「DoingとBeing」に通づるものがあるなぁと思った。Being=どのような自分であるのかを選択すること、Doing=何をするか、と考えると、かなりしっくり読み解くことができた。
そうやって考えると、心理学や自分の心の動きに興味関心がある人でないと、この本だけで独力で自己を癒すのは難しいかもしれないとも感じた。ただ、それでも苦しい状態にある人が何かのヒントを掴むための貴重な本であると思う。
この本はあくまでも「セラピー」であり、セラピーを受けた自分を癒し、治していくのは、自分の治癒能力でしかない。苦しいから変わりたい、という人が、この本で心の補助線を学び、自分の心と対話する時間ができればいいなあと感じた。
 
↓『居るのはつらいよ』の感想はこちら

coffeemeow.hatenablog.com

 

『妻はサバイバー』を読んだ、まだ感想はまとまってない

note.com

 

2022/4/28まで無償で全文公開してくれているので、読んでみた。というか、ちょっと読んでみようかなーと思ったら夢中で全部一気に読み切ってしまった。

ざっくり言うと、ある時から過食嘔吐を繰り返すようになった妻(虐待サバイバー)と夫(朝日新聞記者)の話。これだけいうとめちゃシンプルなんだけれど、妻が発症してからいまに至るまでの20年間が、新聞記者の圧倒的な筆力で非常に読みやすくまとめあげられている。妻が受けていた虐待がどのようなものだったのかは明らかにされていないが、虐待や性犯罪が1人の人間をどれほど破壊し尽くしてしまうのか、体は健康に見えてたとしても、このルポに記されている20年間の苦悩を読んでいくとよくわかる著者自身も途中で精神的な病にかかり、おそらく発症当時の30代の著者が考えていた人生設計とは全く異なる人生を歩むことになったんだろうと推察する。御伽噺のように、みんな健康になりました、めでたしめでたし、で終わらない。それでも、現実とともに歩んでいる著者と妻の姿は、精神疾患を患っている方や家族が精神疾患を持っている方にとって、勇気づけられるものなのではないかと思った。

読んでよかった。

お散歩log -駒沢大学〜三軒茶屋-

春めいてきた3月上旬、美容院に行くために普段はいかない駒沢大学〜三茶エリアを散策したらすごく楽しかったのでお散歩記録。

#美味しいタコス #のんびり三茶カフェ #美味しいに違いないスイーツ

 

目次

 

ロス・タコス・アスーレス

久しぶりに平日休みをもらい、のんびり美容院&ぷらぷらお散歩。3月上旬の春に向けてぐんぐん暖かくなっていく気候がすごく気持ちいい…。午前中に美容院で髪の毛を切ってもらって、ランチはなぜかgoogle mapでマークしていた<ロス・タコス・アスーレス>へ。

小さな小さな商店街のようなところにポツンとある小さなお店。だけれど、これがびっくりするくらい美味しかった!いままでタコスらしいタコスは、タコベルやChipotleでしか食べたことがなかった私でも”こいつぁレベルがちがうぜ…”ということが秒でわかる美味しさ。代官山のおしゃれぴーぽーの集まるアシエンダ デル シエロの方が食べログの評価は高いけど、料理のレベルで言うと確実にこっちの方が1、2段階上。

女性二人連れとかカップルが多かったものの、近所のおじさま、おねえさんが1人できてたりしてて、とても入りやすい雰囲気。お店のキャパが4テーブル、カウンター5席くらいなので、混んでると入れないことだけが懸念かな…。感じのいいフレンドリーなお姉さんが1人客でもお勧めのオーダーを教えてくれるので、わからないことはどんどん聞けて、1人でも居心地がいい。

オーダーしたのは、グアカモレ、筍と山椒のチョリソーベルデ(タコス)、カルニータス(タコス)、ケサディーヤ、と、昼からビール🙌 最高か

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中でも季節限定の筍と山椒のチョリソーベルデが、びっくりするほど美味しかった!チョリソーのお肉の旨味とぴりりとした辛味がたけのこの優しさ包まれたところに山椒で鼻に抜ける爽やかさがプラスされて、もう何が何だかよくわからないけどもう一個くださいって言いたくなった(我慢した)

以前は夜営業で結構高かったようだけれど、いまはブランチ営業中心で昼から飲みつつ美味しいタコスを食べるのに最高のお店。また1人でも友達を誘っても行きたい!

 

www.lostacosazules.jp

ロス・タコス・アスーレス(食べログへリンク)

 

Neue(ノイエ)

タコスランチに大変満足したあとは、気になっていたケーキ屋さんへ、てくてくお散歩。桜はまだ咲いてないけど、暖かくなってきてお散歩に最高の気候。到着したのは小さなお菓子屋さん、Neue(ノイエ)。前日にGoogle mapで美味しそうなお店ないかな〜と探してて見つけた、ケーキ・焼き菓子のお店。

前に1人だけお客さんがいたので、5分くらい待って入店。行った時にあったケーキは、ガトーショコラ、プリン、チーズケーキ、レモンメレンゲパイ、モンブラン、、、だったかな?5種類くらいあって、何種類かは平日の14時くらいでもう売り切れてしまっていて、人気の程がうかがえる。他にもカヌレやクッキーも売ってて欲しいものがありすぎて大変。グッと我慢してケーキ2種類(我慢できてない)。イートインスペースはないのでお持ち帰り〜。

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<外観>すごく小さなかわいい店舗。中に入れるのは1組まで。

レモンタルトとガトーショコラ

2個食べちゃうもんね

インスタ→https://www.instagram.com/sugawara__neue/

Neue(食べログへリンク)

 

Moon Factory Coffee(ムーン ファクトリー コーヒー)

その後、前から気になっていたMoon Factory Coffeeへ。京都のELEPHANT FACTORY COFFEEの2号店。京都のエレファントにも行ったことがあり、(冬に行ったらすごく寒かったんだけど、)読書するのにとっても居心地はよかったので、わくわくしてMoon Facotryへ。

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<写真>階段を上がって中が見えない扉を開けるのってワクワクするよね

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<コーヒーの写真>コーヒーを頼むとレーズンチョコが付いてくるのが嬉しい

エレファントと同様に濃い目に抽出された、深入りのコーヒーをちびちび飲みながら読書…。窓からは柔らかい春風がふわっと入ってきて、ここは天国かな?平日の夕方だったこともあり、混雑もしてもおらず、気持ちの良い時間を過ごせて大満足。

ムーン ファクトリー コーヒー(食べログへリンク)

 

まだまだ行きたいところがたくさんある駒沢・三茶エリア。また髪の毛切りに行くのが楽しみだな。

 

<行きたいパン屋> このエリアのパン屋のれべる高すぎん?

<ランチ> いつもタイカレー行けない…

<カフェ>

【書評】『「毒親』って言うな!』 斎藤学

 

 

最近よく聞く「毒親」論に対し、「親を憎んで思考停止するのはやめて、そこから一歩踏み出して自分を取り戻そうよ」と語る、家族問題に50年以上取り組んできた精神科医(臨床家)の著書。

 

この本を読みたいと思ったきっかけは、斎藤学さんの『「自分のために生きていける」ということ』や『「愛」という名のやさしい暴力』などの著書を通して、生きづらい成人(アダルトチルドレン)に対して、どうやったら生きていけるのか?ということを、すとんと、説教臭くなく教えてくれる人という印象があり、彼の最新作なら読んでみたいと思ったため。

また、自分自身、学生時代にスーザン・フォワードの『毒になる親』に救われた存在でありつつも「でもそこまでひどいと思ってないんだよね…私自身は苦しかったけれど、いま日本社会で言われているような「毒親」として親を断罪することには違和感がある」と感じていたためだ。

 

毒になる親

毒になる親

Amazon

今回の著書も、自分の中ですとんと腑に落ちるような描写がたくさんあった。

この本(スーザン・フォワード著「毒になる親」)の特徴は、「ペアレンツ(親たち)」という言葉を用いて本文で紹介される症例(親の犠牲者と考える個人)の両親2人の間の関係に「毒」が含まれていて、毒親ふたりの作る「歪んだ夫婦関係」に焦点を当てていることです。その両親関係の歪みが、ひとりの子ども(なぜがその子の同胞との関係については触れていない)に悪影響を及ぼすというものです。

(中略)

フォワード氏の本の第1章にはギリシャ神話のオリンポス神がその場の気まぐれで人間たちを罰すること、人々は常に神々への恐れにおののいていることが語られています。そしてあらゆる親の庇護下にあるすべての子どもたちにとって親たちとはオリンポスの神々のようなものと説かれています。

私もこれに賛成ですが、それは家という絆の中で子供が過ごす限りやむを得ないことだと思います。私はことさらに「毒親」がいて、それと対比されるような「非毒親」がいるとは思いません。「家〜虐待の生じる場所」であればこそ、そこはさまざまな程度に子どもが傷つきつつ育つ現場なのだと思います。

ここを読んで、「親の過干渉が息苦しくて、家を出てからも息が詰まるような感覚があって、すごく辛かったのは確かだけれど、一般的な毒親論で語られているような「そんな親捨てちまえ」「お前は悪くない頑張ったな!」というコメントに心と体を預けられるほど、ナイーブでもないの」「親もしょうがなかった、今更責めようと思ってない、でもいま辛いのはどうすればいいの?」という、言語化されていなかった「毒親論」への違和感に対して、解が見えたような気がした。

第4章で以下のような記述がある。

このように「毒親」を非難することに取り憑かれている人は、「内なる他者」の声に縛られ、その「内なる他者」を「毒親」と名づけてもがいています。そして非合理な罪悪感と、非合理な自罰感情にとらわれている。これこそが、対人関係の障害となっています。ですから、対人関係を改善するには、罪悪感をゆるめることが非常に有効です。

(略)

「とりあえず、”努力が足りないからダメ”って考えるのやめようよ。(略)もう気づいているだろうけど、世の中は努力だけじゃないだろう?そこを努力でなんとかなると思うところが、きみの苦しさだよ」

(略)

私がクリニックでやっていることは、最初から最後まで患者さんの凝り固まった”価値観念をはずす”ということにつきます。

あれでもよい、これでもよい、こう言う方法がある……とたくさんの選択肢を柔軟に検討できる。その中から自分で「これがよい」と思ったものを選択し、選択した結果を他人のせいにしない。これは大人の条件です。

(略)

主義主張(イズム)に凝り固まると、他の選択肢が見えなくなるし、自分が信じていること以外の選択肢を選んだ人を攻撃したくなります。もう少し幅広く受容し、柔軟に人生に対処して欲しいのです。

結局自分が感じている「生きづらさ」っていうのは、自分自身が生きてる中で設定してしまった「こうでなければならない」という言語化されていない無意識下のルール、そしてそれを破ってしまった時に起きる自罰感情・罪悪感なんだよね、と理解した。そし、往々にしてそのルールは言語化してメタ認知すると、全く合理性を欠いていたりする。

私が自分に対して無意識に化しているルールは

  • 私はいい大学にはいったのだから、いい会社に入ってある程度のお給料をもらっていないと恥ずかしい
  • この年になったら結婚して子供もいないと恥ずかしい。結婚していないのだから、最低限以下の要件を満たすべきである。
    • 私は結婚していないのだから、仕事くらいは他人にも誇れるものであり、活躍していると思われるものじゃないと恥ずかしい
    • 私は結婚していないのだから、同い年の人と比べてある程度綺麗でないと恥ずかしい
  • 親とは良好な関係であるべきだ。それが達成できないのであれば、最低限以下の要件を満たすべきである
    • 病気になったらできる限りのサポートはすること
    • 心配させない程度に顔を見せること
  • 結婚して子供を産み、孫を親に見せないのは親不孝である

他にも細々したものが死ぬほどあるな。この要件を全部満たさないと罪悪感と自罰感情を感じるとか、生きるのつらすぎるだろうなと自分でも思う。そういう感情を掬い上げて、「毒親」という攻撃の矛先を見つけてくれるのが、昨今の「毒親論」なんだろう。

ただ、「毒親」は概念であって、絶対的な「毒親」が存在するわけではない。現場の人間からすると、概念にいちゃもんつけてぐだぐだとくだを巻く時間があるのなら、前に進むために何ができるか考えよう、ということだ。

斎藤さんは『「毒親」っていうな』の中で

私としてはようやく、精神科医の本質的役割に気づくようになりました。少なくとも私は「医師」ではありません。目の前にいて「患者と呼ばれている人」が個別に抱えている成熟の可能性に気づいて、変身の基礎になる志を見つける手伝いをする人です。

と語っている。ここまで悟るのはまだだいぶ先だろうけど、私もくだを巻く大人になるのではなく、苦しんでいる人(自分を含めて)を一歩でも前進させるためにできることをやっていきたい。そう言う大人になりたい。

 

Appleに対して小さな抵抗をしようと思った話

私は5年前に海外で購入したiPhone7を2022年に至るまで、ずーーーーっと使っている。

iPhone の新世代発表会があるたびに買おうかな、どうしようかな、と思うものの、買い換えるには至らなかった。

理由は、3つある。

1. あまり携帯を使うタイプじゃないので、壊れてないのに変える気にならない

2. 海外で買った携帯だとカメラのシャッター音が鳴らないので、美術館や静かなレストランなどで重宝するので、買うなら海外で買いたい

3. そもそも携帯に10万て高すぎじゃない?

 

そんなこんなで5年も使っていると、電池の寿命がヤバヤバになってきた。行きの電車で音楽を聴きながら10分も経つとバッテリ50%、ちょっとgoogle mapを開くと15%、帰路に着く頃には息も絶え絶え、、、というところ。バッテリー交換の予約ができるか調べてみると、ちょうど翌日にできそう。バッテリー交換だけなら6000円弱なので、正月のうちに替えちゃおうか、ということでApple Storeを訪問。

感じのいいお兄ちゃんに「2.5時間かかります〜」と言われ、了承してiPhone を預け、映画 キングスマンをみてApple Storeに戻ると、感じのいいお兄ちゃんが「実はお話ししなければならないことがあって、まだ修理が完了してないんです…」と申し訳なさそうな顔で立っている。

お兄さんの話によると

1. 私の携帯は、非正規ショップで画面割れを修理したことがある

2. そのようなショップでは、本来あるべきケーブルの場所がずれて修理されてしまうことがあるらしく、私の携帯も例に漏れず、Apple Storeの修理の方が画面を開けたらそこにないはずのケーブルがあり、Touch IDのケーブル切れてしまった(Touch IDが全く機能しない状態)

3. この場合、バッテリー修理だけでなくスクリーンも変える必要があるので、費用が23000円になる(+17000えん!)

4. どうします…?今ならちょっと安くSEか12か12mini買えますけど…

とのことだった。

 

(いやいやいや待て待て、確かに非正規ショップで画面修理をしたのは私だが、それて全く使えない状態になるリスクがあるならそもそも修理しなかったよ!?そんな説明もなかったよね!?てかそのリスクがあるなら次海外に行くまで修理せずに騙し騙し使ったのに〜!!)という心の声を「ええ〜〜ああ〜〜確かに修理しましたが〜〜ええ〜〜まじか〜〜シャッター音が嫌なんです〜〜😭」という全く論理的でない言葉で伝えると、お兄さん「そうですよね、説明をちゃんとしてなかったので…ただ僕には価格を決める権限が全くないのでマネージャーに相談してきます」と言ってくれる。お兄ちゃん、いいやつだ(←後で私を逆に苦しめる)

 

新しいのを買うべきか…でもでもシャッター音が…てか新しい洗濯機の方が優先順位が高いし…など1人で悩んでいると、お兄さんが5分くらいで帰ってきた。

「本来はフルでいただくのがルールなのですが、そのルールに縛られらのもあれなので、5050ということで半額にさせていただければと…」

 

ここで印象的だったのは、説明しなかったApple Store側に落ち度がある、という言い方をしなかったこと。落ち度がないなら満額請求すればいい、落ち度があるなら認めて全額保証すればいいのに、中途半端な半額サポート。この辺りから私はAppleの持つ思想に対してなんとなーくイヤな感じを持ち始める。

でも同時に、”価格決定権がないお兄ちゃんはそこまでわかってないんだろうなぁ。自分のミスで申し訳ないことになったなぁと思い、上長に相談して、ここまでならいいよと言われたことをそのまま私に伝えてくれているんだろうな。なんなら私がもうちょいごねれば全額負担してもよい、と言われているのかもしれないけれど、申し訳なさそうで私も申し訳なくなってくるな。”という気持ちになり、「わかりました、それでお願いします。」と伝える。兄ちゃん「はい…あー…すみません…そうですよね……」となんだか煮え切らない。(この辺で「ああ、ごねたら全額保証でもOKと言われてたのかな…となんとなく思った。)だが兄ちゃん、気分を切り替えて「では、こちらで修理進めさせていただきますね」ということで修理してもらった。

まあその後も私が事前のOSアップデートしてなかったりとかなんだかんだでいろいろあって、結局想定時間よりも+1時間ちょいかかり、予想より8200円余計にお金がかかって私のiPhoneが私の手元に戻ってきました。

 

修理の間に"なんで私はこんなビミョーな気持ちになっているんだ?"と深ぼってみたところ、<Appleの寡占に対しての抵抗感><”Apple Storeのスタッフの感じの良さ”まで含めてビジネスを作り上げているAppleへの倫理的な抵抗感>が引っかかっているんだろうなあと思った。

 

<Appleの寡占に対しての抵抗感>

お兄ちゃんがマネージャーに聞きに行っている間に私は”どうか全額払えとか言うなよ、Appleのこと嫌いになりたくないんだから、なにかしら提案を持ってきてね…できれば全額保証して欲しい…”と思っていた。でもこの状態って健全じゃないよね?彼氏からDV受けてて「これ以上嫌いになりたくないから今日は殴らないで!!!」みたいな感じじゃない?そんな彼なら棄てちゃえばいいんだよ!

でも、捨てられない、なぜならそれ以外の選択肢がないから。正確に言うと、Android携帯に乗り換えるっていう選択肢はあるんだけど、これだけ多くの人がiPhoneを使っていて、自分自身もiPhoneように最適化されていて、自宅PCがMacとなると、正直AppleーiPhone以外の選択肢はない。いままではそれでいいと思っていたけど、裏を返すとさまざまな決定がAppleに支配されていて、顧客である私たちには自分が購入したもののコントロール権がないと言うことになる。今回も結局想定より高い価格をAppleに吸い上げられたわけだし、なんなら新しいiPhoneを購入する可能性もあった。私がお金を出して買ったものなのに、私のコントロールできない場所で選択肢を奪われて、お金を使わされることに対して、強い抵抗感を持った。大学で貧困問題を学んでいたときに、恩師から教えられた「貧困とは選択肢がないことである」という言葉が頭をよぎった。

 

 

<”Apple Storeのスタッフの感じの良さ”まで含めてビジネスを作り上げているAppleへの倫理的な抵抗感>

もう一つはAppleに限らず、大企業はすべからくやっていることだけれど、スタッフの感じの良さやスタッフの無償の感情労働を自社の利益に還元していることに、なんともいえない、いやぁな感じを受けた。今回私がお兄ちゃんを詰めなかったのは”このお兄ちゃん、いいやつだな。申し訳なさそうだし、しょうがないから払うか”と思っちゃったからである。もしもすごく感じの悪いスタッフが出てきて「満額修理ですね〜もしくは新しいの買うかっすね」と言われた場合「そもそも修理を受けることに対してリスクがあると言う説明を私は受けていませんよね?5年つかっていて画面修理をしたことがないことは修理履歴見ればわかることだし、その間に非正規ショップで画面修理した可能性があることは予見可能なはず。その説明を省いた上で、開けたら使えなくなっちゃったのでお金払うか新しいの買ってくださいって言うのは筋が通らないんじゃないですか?Touch IDが使えなくなったのは説明不足でリスク管理を怠った御社の責任なので、画面修理の代金はApple持ちが筋じゃないですか?それができないのであれば、修理に預ける前の状態に復帰(バッテリー交換せず、それ以外は問題がない状態)させることは、最低限の責任だし、そのリスク管理をミスったのはそちらですよね?」と論理的に詰めたら全額Apple持ちになった可能性はなくはない。でもそうしなかった。なぜなら兄ちゃんがいいやつで、私も”兄ちゃんに免じて8000円くらい払ったるか”と思っちゃういいやつだからである。でも、私の財布から余計に旅立っていった8000円はいいやつであるお兄ちゃんの懐には行かず、Appleの売り上げとして計上されるだけ。結局はAppleという会社を潤わせただけである。

元の元をたどっていくと、そもそも落としたら画面が壊れるような携帯を作るな、画面修理が1万7千円て高すぎだろ、画面修理が高いからこそ非正規修理業者が出てきてAppleもそれを許容しているのに、いざ修理ってなったらそのツケを消費者に支払わせんのかい、、、というところにまで考えが及ぶ。追求していくと、「画面バリバリに割れる可能性あるけどリリースしてOK、画面修理代は高くてOK、ストアスタッフは感じのいい子を採用して楽しい雰囲気でフレンドリーに接してカスタマーとの関係性を構築させてクレームが出にくいようにしよう、顧客対応でAppleにも顧客にも非がある場合は全面的には謝罪せずに5050で支払わせよう」という、こすっからいビジネス判断をしているAppleという会社がやな感じなんだよね。今回の件で言うと、5050を提案させたマネージャーの判断(もしくはAppleのマニュアル)の裏に、利益を最大化させるために私と兄ちゃんの感情が数値化されたような、言い換えると利益のために個人がモノ化されたような嫌な気持ちになった。ちなみに私は最後に退店した顧客だったけど、兄ちゃんが価格の承認を得に行った上長は手元のiPhoneをみていて、退店時に横を通ったのにこちらに見向きもしなかったよ。絶対に私に気付いていたのに、ね。

一歩引いて考えてみると、自分もビジネスでマネージャーとして、無意識にスタッフの感情や”いいやつ”な部分に甘えてるところがあるな、ということをメタ認知させられた。ビジネス判断としては間違っていないかもしれなけれど、人として私はそれは嫌いだ。交渉すること自体は悪いことではないが、何も分かっていないスタッフを矢面に立たせて感情労働させて、自分は裏で利益の計算をするような人にはなりたくない。きちんと全部説明してスタッフが判断できるように育てたり、自分が自らきちんと説明できるような、顧客を馬鹿にしないビジネスマンでありたいと考えさせられた。

 

今回の教訓

・寡占状態に反抗する。おまえんちのトイレTOTOなの?なら俺はLIXILにするわ。

・事前にきちんと更新やバックアップなどは取っておく

・いいやつな自分を失わない。いいやつを都合よく使わない。おまえ、いいやつ、おで、いいやつ。

【書評】『Humankind 希望の歴史』ルトガー・ブレグマン

「人間なんてロクなもんじゃない」という人間観って、実は科学的な裏付けはない

『Humankind 希望の歴史』は、現代の人間の人間観の底流に流れる「人間はロクなものじゃない」「人間はおかれた状況によりどんな残忍なことでもしうる」という、人間の本性は悪である、という性悪説に真っ向から立ち向かう著作だ。

勝間和代さんのブログで絶賛されており「どんなもんよ」と思って読み始めたのだけれど、非常に面白かった!

いままで自分が信じていた「人間は状況によっては他人を見殺しにするし、他者に対して害悪を働くことを厭わない」という人間への絶望感が、さまざまな論証によりどんどん論破され、もしかしたら人間の本性は善なのかもしれないと思うに至った。 

 

Summary

現代の西洋文化に通底する「人間はロクなもんじゃない=人間の本質は悪だ」という思想がどこに端を発するのかを丁寧に読み解き、その思想がいかに恣意的に喧伝されたかを解説してゆく。

例えば…

  • 少年たちの残虐さと愚かさを描いた『蝿の王』。しかし、小説と似たような事故(少年たちだけが孤島に取り残される)が実際に発生した際に起こったのは殺し合いではなく助け合いだった。ちなみに、発見された際、少年たちはめっちゃ健康体だった。
  • 戦時中に銃を撃ったことがある戦士は実は15−25%しかおらず、自分が撃たれるリスクがある場においても、敵を殺そうとしなかった。人間は、人を殺すことに対して非常に大きな抵抗感がある。
  • キティの死で有名になった傍観者効果は、他者とのコミュニケーションが断絶された状況においては事実かもしれないが、①命の危険があることが明白であり②傍観者が互いに対話できる状況であれば、むしろ傍観者効果は逆に働く。そもそもキティの事件で喧伝されている「37人の傍観者」は、警察から事情聴取を受けた人数であり、寝ていて事件に気がつかなった人も含んでいる。キティは37人の傍観者に放置されながら一人で亡くなったわけではなく、事件に気づいて駆けつけた知り合いの腕の中で亡くなった。
  • 人間は立場を与えられるとどんな残忍なことも躊躇いなくする、看守は看守らしく振る舞い、囚人は囚人らしく振る舞うようになる、ということで有名な心理実験「スタンフォード監獄実験」。しかし、実際は実験を管理するフィリップ・ジンバルドと研究チームから看守らしく振る舞うことを強制されたことがさまざまな証拠で残っている。強制されることに嫌気がさして看守を下りた人もいるし、「出してくれ」と狂乱状態になったと言われている囚人役の生徒は、実験中に期末試験の勉強ができると思っていたのにできなかったため、わざとそのように振る舞ったとのちに証言している。さらに、後年BBCが同じ実験をしたところ、何も起きなかったどころか、看守と囚人が交流を始めコミュニティが生まれた。
  • 人は権威に指示されれば他者を殺すことも厭わない、ということを明らかにした「ミルグラムの電気ショック実験」。が、そもそもこの実験で自分が本当に電気ショックを与えていると思っている被験者は半数程度だった。さらに、被験者の大半は「自分の行動が科学に貢献している」と思い、実験者を信頼したので一定数の被験者は人を殺すレベルまで電気ショックを与える指示を出した。しかし、そのためには宥めたり脅したり命令したりという実験者の工数が非常にかかることがわかった。

つまり、私たちが「ああ、人間って本質的に悪なんだ」「だって人ってこんなに残酷になれるじゃないか」というときの根拠は、ある人間のエゴが肥大化して時流に乗って世界的に「ノセボ(プラセボの逆)効果」をもたらしているだけなんじゃない?ということを論じている。

ではなぜホロコーストの虐殺のようなことが起こってしまうのか?というなぜに対し「共感」をキーにしつつ解説する。(第10章 共感はいかにして人の目を塞ぐか)

実験によると、幼児に親切な人形と悪い人形がでてくる人形劇を見せると、親切な人形に手を伸ばす。つまり、幼くても道徳心があることを証明している。しかし、はじめに「Aが好き」「Bが好き」を選ばせた後に「Aが好きな親切な人形」「Bが好きな悪い人形」の人形劇を見せると、親切であることよりも自分と好みが似ていることの方が優先される。つまり、自分が共感できる存在が悪であったとしても、そちらにつくのである。ある存在に共感すると、その存在にスポットライトが当たった状態になり、その他大勢が視野に入らなくなる。

このように人間は「共感」した相手に対しては、仲間だという意識を持ち、協力し合おうとする。しかし同時に、「共感」ができる相手の人数は限られており、「共感」できない仲間以外に対しては寛大でなくなることができる。ヒトラーや現代の戦争を指揮する、兵士が敵の兵士に対して仲間意識を持たないよう、遠隔操作(地雷、手榴弾、空爆、砲弾)で敵を殺すように訓練し、人間生来の暴力を忌避する能力をなるべく無効化しようとする。隣にいる共感できる仲間のため、という強調をすることで、遠く共感できない敵を殺すよう指示を行う。著者によると、このような指導者・権力者には特徴があり、エゴイストで利己主義者、偏執的なナルシストであるという。それゆえに、大多数は善良であったとしても、戦争は無くならない。

ヒトラーやIS指導者ほど変質的なナルシストでなくても、権力を持った一般の人も「荒天的社会病質者」、つまり脳を損傷したように衝動的、自己中心的で、横柄で無礼、他者の気持ちを慮らなくなるという。つまり、権力はそれを持った瞬間から腐敗が始まるのだ。(第11章 権力はいかにして腐敗するか)

私たち人間は、移動を基本とする狩猟社会から定住を基本とする農耕社会へと発展したとされている。濃厚社会が発展して文明が生まれ、「これは私のもの」「この土地はおれのもの」という概念がうまれた時から、自らの所属集団への帰属意識が優先され、アウトサイダーが排斥され、争いが生まれたと著者は説く。しかしこの文明化の呪いを説くため、人間は自らの人間観/-ismを思想し続け、17世紀に啓蒙主義が生まれた。つまり、「人間の本性は堕落しているが、利己主義を突き詰め、合理的な思考を行うことで、自らの生来の利己性を考慮に入れた知的な制度を設計できる。人間は、自らの悪い性質を利用することで交易の奉仕することができる。」という思想である。(乱暴に言い換えると、「みんな利己的で自分のことしか考えてないんだけど、自分も自分以外も利己的ってことは、その自己中さをみんなが納得できる範囲で押さえ込む仕組みを作って守ろうぜ、その方が結局自分の利益になるから!」という考え方のこと。)

そうして、民主主義や資本主義、法の支配が世界中に広がった。そう、これらの主義の根本には「人間は利己的なものである」という前提があるが故に、啓蒙主義者たちは「人間の本性には他人の幸福を求める原則が見られる」と認めていても、私たちは利他的な自分をすっ飛ばして、利己的であり、シニカルな人間観を持ち続けてしまうのだ、と著者は説く。

言い換えれば、人間の本性は利己的で「あるかのように」、わたしたちは行動すべきだとヒュームは考えていたのだ。そうではないと知っていても。これに気づいた時、一つの言葉が私の頭に浮かんだ。「ノセボ」だ。啓蒙主義、ひいては現代社会は、間違っていたのだろうか。私たちは、人間の本性についての間違ったモデルに基づいて活動しているのだろうか。(第12章 啓蒙主義が取り違えたもの)

では、人間は利他的である=本性は善だということを前提にした場合、何が起きるのか?が後半ではさまざまな事例で紹介されている。

例えば…

  • リーダーもマネージャーもいないにも関わらず、満足度は高く、コストは圧倒的に低い在宅ケア組織ビュートゾルフの成功 The Buurtzorg Model - Buurtzorg International

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  • クラスはない、時間割はない、教室もない。先生の代わりにコーチがいて、生徒が自律的に学習を進めるサポートをするオランダの学校、アゴラ。

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さらに、受刑者と看守がともに日光浴をして同じテーブルで食事を取るノルウェーの刑務所。このような刑務所から出所した受刑者の再犯率は、地域社会への奉仕や罰金を言い渡された犯罪者より50%も低いという。

エピローグで著者は、この本を書いたことで人生が変わり、この著作を書いた経験から生まれた10の指針を紹介して締め括られる。

  1. 疑いを抱いたときには、最善を想定しよう(ほとんどの人が善意で動いている寛容な人だ)
  2. win-winのシナリオで考えよう(いいことをすればいい気分になる、他者を許せば怒りから解放されず苦しんでいる自分を開放できる)
  3. もっとたくさん質問しよう(他者が何を望んでいるのかはわからない、なら聞こう、議論しよう)
  4. 共感を抑え、思いやりの心を育てよう(感情移入して共に苦しむことをやめ、その人のためを思おう)
  5. 他人を理解するよう努めよう、たとえその人に同意できなくても(理性を働かせて、感情で判断するのを止めよう)
  6. 他の人々が自らを愛するように、あなたも自らを愛そう
  7. ニュースを避けよう(ネガティビティ・バイアスに支配されない)
  8. ナチスを叩かない(他者を攻撃するのではなく、手を差し伸べる)
  9. クローゼットから出よう。善行を恥じてはならない(善行をしたのに自分の行動を遠慮し、恥じると、ノセボのようにシニカルな見方を身につけてしまう)
  10. 現実主義になろう

この最後の10個目が著者が最も主張したかったことだ。

本書の目的の一つは、現実主義(リアリズム)という言葉の意味を変えることだった。現在、現実主義者(リアリスト)という言葉は、冷笑的(シニカル)の同義語になっているようだーとりわけ、悲劇的なものの見方をする人にとっては。

しかし、実のところ、冷笑的な人は現実を見誤っている。わたしたちは、本当は惑星Aに住んでいて、そこにいる人々は、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ。

だから、現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日のもとで良いことをし、 自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、騙されやすい非常識な人、とみなされるかもしれない。だが。覚えておこう。今日の非常識は、明日の常識になり得るのだ。

さあ、新しい現実主義を始めよう。今こそ、人間について新しい見方をする時だ。

ストレスマネジメントが上手になりたい

はあああああああああ。疲れている。何に疲れているって、慣れないマネジメント業務に疲れている。

 

cybozushiki.cybozu.co.jp

 

今年の春に異動した部署は、会社の中では経営層に近い部で、新しい金儲けのタネを探すという就活生が喜びそうな夢のある仕事についている。ただそういう部って概してお金を生み出さない部なので、自分たちは頭を使って仮説を立てるだのパワポを作るだの分析をするだのしつつ、実際に手を動かしていただく部分は別の部署の人にお願いする必要がある。

となると何が生じるかというと、アラサーの小娘が現場で戦い抜いてきた生え抜きの課長とか部長とかに「こういうことやりたいんで、ご協力お願いします☆」とお願いする必要が出てくる。しかもそれが必ずしも現場の生え抜きのやりたいことと一致するとは限らない、ていうかむしろ「なんでそんなことやるの?」というところにこそ新しい金儲けの種がある。

つまり、15からこの道に入って30年の蕎麦打ち職人に「なんか〜ペペロンチーノ蕎麦が売れそうなんで、頑張って作ってもらえません?私は蕎麦の打ち方わかんないんですけど、そばもペペロンチーノも美味しいんで、きっといけると思うんです☆ミャハ☆」っていう仕事だ。

 

 

つれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜まじつれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

もうちょっと真面目なことを言うと、まあミャハ☆で終わらせるほど適当な仕事は流石にしない。ペペロンチーノ蕎麦が何故売れそうなのかということを説明するために、ペペロンチーノ蕎麦を誰に買ってもらいたいか考え(対象顧客を特定)、買ってくれそうなお姉さんの姿を妄想し(顧客のペルソナの作成)、ペペロンチーノ蕎麦はペペロンチーノ及び蕎麦と何が違うのか(差別化要因)を明確にし、ペペロンチーノ蕎麦を提供することで顧客のどのような課題を解決したいのか(ペインポイント)、ペペロンチーノ蕎麦を食べることで顧客にどんな状態になって欲しいのか(ゲインポイント)などなどを言葉にして図にして職人にわかってもらい、「なるほど、ペペロンチーノ蕎麦いっちょ作ってみるか」という気持ちになっていただき、実際に美味しい作ってもらうことが仕事である。

 

 

つれ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜つーかぶっちゃけペペロンチーノそばとかどうでもいい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

と言いたいのを必死に我慢して、ペペロンチーノ蕎麦の意義を毎日説いている。

すると何が起きるかって言うと、そう、ストレス!ストレス過多!!!ということで、最近夜うまく眠れなかったり、食欲が落ちたり、突如として気持ち悪くなったり、心身ともに調子が悪い。

ひとまずいま、以下の本や癒しグッズでどうにか自分を奮い立たせているものの、いつまでもつかな…。ストレスマネジメントが、上手に、なりたい…。