最近よく聞く「毒親」論に対し、「親を憎んで思考停止するのはやめて、そこから一歩踏み出して自分を取り戻そうよ」と語る、家族問題に50年以上取り組んできた精神科医(臨床家)の著書。
この本を読みたいと思ったきっかけは、斎藤学さんの『「自分のために生きていける」ということ』や『「愛」という名のやさしい暴力』などの著書を通して、生きづらい成人(アダルトチルドレン)に対して、どうやったら生きていけるのか?ということを、すとんと、説教臭くなく教えてくれる人という印象があり、彼の最新作なら読んでみたいと思ったため。
また、自分自身、学生時代にスーザン・フォワードの『毒になる親』に救われた存在でありつつも「でもそこまでひどいと思ってないんだよね…私自身は苦しかったけれど、いま日本社会で言われているような「毒親」として親を断罪することには違和感がある」と感じていたためだ。
今回の著書も、自分の中ですとんと腑に落ちるような描写がたくさんあった。
この本(スーザン・フォワード著「毒になる親」)の特徴は、「ペアレンツ(親たち)」という言葉を用いて本文で紹介される症例(親の犠牲者と考える個人)の両親2人の間の関係に「毒」が含まれていて、毒親ふたりの作る「歪んだ夫婦関係」に焦点を当てていることです。その両親関係の歪みが、ひとりの子ども(なぜがその子の同胞との関係については触れていない)に悪影響を及ぼすというものです。
(中略)
フォワード氏の本の第1章にはギリシャ神話のオリンポス神がその場の気まぐれで人間たちを罰すること、人々は常に神々への恐れにおののいていることが語られています。そしてあらゆる親の庇護下にあるすべての子どもたちにとって親たちとはオリンポスの神々のようなものと説かれています。
私もこれに賛成ですが、それは家という絆の中で子供が過ごす限りやむを得ないことだと思います。私はことさらに「毒親」がいて、それと対比されるような「非毒親」がいるとは思いません。「家〜虐待の生じる場所」であればこそ、そこはさまざまな程度に子どもが傷つきつつ育つ現場なのだと思います。
ここを読んで、「親の過干渉が息苦しくて、家を出てからも息が詰まるような感覚があって、すごく辛かったのは確かだけれど、一般的な毒親論で語られているような「そんな親捨てちまえ」「お前は悪くない頑張ったな!」というコメントに心と体を預けられるほど、ナイーブでもないの」「親もしょうがなかった、今更責めようと思ってない、でもいま辛いのはどうすればいいの?」という、言語化されていなかった「毒親論」への違和感に対して、解が見えたような気がした。
第4章で以下のような記述がある。
このように「毒親」を非難することに取り憑かれている人は、「内なる他者」の声に縛られ、その「内なる他者」を「毒親」と名づけてもがいています。そして非合理な罪悪感と、非合理な自罰感情にとらわれている。これこそが、対人関係の障害となっています。ですから、対人関係を改善するには、罪悪感をゆるめることが非常に有効です。
(略)
「とりあえず、”努力が足りないからダメ”って考えるのやめようよ。(略)もう気づいているだろうけど、世の中は努力だけじゃないだろう?そこを努力でなんとかなると思うところが、きみの苦しさだよ」
(略)
私がクリニックでやっていることは、最初から最後まで患者さんの凝り固まった”価値観念をはずす”ということにつきます。
あれでもよい、これでもよい、こう言う方法がある……とたくさんの選択肢を柔軟に検討できる。その中から自分で「これがよい」と思ったものを選択し、選択した結果を他人のせいにしない。これは大人の条件です。
(略)
主義主張(イズム)に凝り固まると、他の選択肢が見えなくなるし、自分が信じていること以外の選択肢を選んだ人を攻撃したくなります。もう少し幅広く受容し、柔軟に人生に対処して欲しいのです。
結局自分が感じている「生きづらさ」っていうのは、自分自身が生きてる中で設定してしまった「こうでなければならない」という言語化されていない無意識下のルール、そしてそれを破ってしまった時に起きる自罰感情・罪悪感なんだよね、と理解した。そし、往々にしてそのルールは言語化してメタ認知すると、全く合理性を欠いていたりする。
私が自分に対して無意識に化しているルールは
- 私はいい大学にはいったのだから、いい会社に入ってある程度のお給料をもらっていないと恥ずかしい
- この年になったら結婚して子供もいないと恥ずかしい。結婚していないのだから、最低限以下の要件を満たすべきである。
- 私は結婚していないのだから、仕事くらいは他人にも誇れるものであり、活躍していると思われるものじゃないと恥ずかしい
- 私は結婚していないのだから、同い年の人と比べてある程度綺麗でないと恥ずかしい
- 親とは良好な関係であるべきだ。それが達成できないのであれば、最低限以下の要件を満たすべきである
- 病気になったらできる限りのサポートはすること
- 心配させない程度に顔を見せること
- 結婚して子供を産み、孫を親に見せないのは親不孝である
他にも細々したものが死ぬほどあるな。この要件を全部満たさないと罪悪感と自罰感情を感じるとか、生きるのつらすぎるだろうなと自分でも思う。そういう感情を掬い上げて、「毒親」という攻撃の矛先を見つけてくれるのが、昨今の「毒親論」なんだろう。
ただ、「毒親」は概念であって、絶対的な「毒親」が存在するわけではない。現場の人間からすると、概念にいちゃもんつけてぐだぐだとくだを巻く時間があるのなら、前に進むために何ができるか考えよう、ということだ。
斎藤さんは『「毒親」っていうな』の中で
私としてはようやく、精神科医の本質的役割に気づくようになりました。少なくとも私は「医師」ではありません。目の前にいて「患者と呼ばれている人」が個別に抱えている成熟の可能性に気づいて、変身の基礎になる志を見つける手伝いをする人です。
と語っている。ここまで悟るのはまだだいぶ先だろうけど、私もくだを巻く大人になるのではなく、苦しんでいる人(自分を含めて)を一歩でも前進させるためにできることをやっていきたい。そう言う大人になりたい。